そうですよ。
ぼくも世間からズレている気がしているから、この本が気になったんですよ。
世間からズレてる界のカリスマ2人が対談したら、どんな話になるのか興味がありませんか?
タイトルのような話を読んだとき、万人が、「あるある~!」って共感するのか?
それとも、やっぱりごく一部の人にしか理解できない話なのか?
ズレるといっても、方向は360度、上下を含めて人それぞれ。
この本を読んだあと、どれだけの人の気持ちが救われて、どれだけの人の頭の中にハテナマークが浮かぶのか?
あなたにも、ぜひ一読していただきたい1冊です。
世間とズレちゃうのはしょうがない
初版発行:2020年10月27日
著者:養老孟司、伊集院光
発行所:株式会社PHP研究所
本書をオススメしたい人
学校でクラスに馴染めない人
サラリーマン生活を苦痛に感じている人
深夜ラジオが好き、もしくは好きだった人
燃え尽きたと感じている人
とくに、都会生活にストレスを感じている人にとっては読後に呼吸がしやすくなるような1冊じゃないかと思います。
この2人の対談がつまらないわけがない
養老孟司さんと伊集院光さんの対談、つまらないわけがないですよね。
しかも、対談のテーマが『世間とのズレ』だっていうんだから、とくに伊集院光さんのラジオを聴いている、もしくは聴いていた人は内容が気になって仕方がないんじゃないですか?
そういうぼくも、大学生のころまで伊集院さんのラジオを聞いていた一人です。
あれは高校生の頃だったのかな?
名古屋のラジオで、毎週木曜日だった気がするんだけど、伊集院光と名乗る謎のオペラ歌手が深夜におかしな話をしていたんですよ。
しかも、リスナーには来週はハガキの代わりに下駄にネタを書いて送ってこいとか、そんなことを言っていた気がするんだけど、とにかく声が言われればたしかににオペラ歌手っぽい男が面白いトークをしていたんです。
伊集院光は落語家だったということを知るのはそれから随分と後の話なのですが、オールナイトニッポンでの電気グルーヴとのメチャクチャなやり取りを聴きながら、学校や受験のルールにまるでついていけないのを強烈なストレスとともに無理やり小さく収まり続けるしかなかった自分は羨望のまなざしを向けていたんですねえ。
とくに、伊集院さんが催眠術でフーミンになった話は腹を抱えて笑ったっけなあ。
当時のラジオを思い出すと、たしかに伊集院さんは学校でいうとクラスの中心的なグループには交われないタイプの人の卑屈さを笑いに変えていたし、電気グルーヴはそもそもシャ乱Q的な一般大衆受けするのものでもセンスがないと思ったら正面から蹴っ飛ばしていくような面白さがあって、向いているベクトルは同じなんだけど使っている武器は真逆みたいなところが一緒になると大爆笑を生んでいたんでしょうね。
そのエネルギーの正体を、令和に出版された本書では上品に『世間とのズレ』と表現しているのかもしれないですね。
ちなみに、養老孟司さんもなかなかの曲者だというのは、たまにテレビに出ているのを見ると感じますよね。
とくに、司会進行がうまいとされるお笑い芸人がからむと大火傷をしそうなくらい、場の空気なんておかまいなしの表情で座ってらっしゃる。
たぶん、放送ではカットされているけど、収録では養老さんの前に芸人たちの屍が無残に転がっていたんだろうなと想像できます。
伊集院さんは、テレビでは世間とのズレを修正しながらうまく立ち回っている。
養老さんは、テレビでも世間とのズレを気にせずむしろ周りに立ち回らせる。
なんだか、昔ラジオで聴いていた伊集院さんと電気グルーヴの関係に近い気もするのですが、どう思います?
都市と自然の中のゴキブリちゃん
都市と自然の関係について話す部分があって、そこでゴキブリの存在にも触れられているんですよ。
なんであんなか弱い生き物が、怖がられ、嫌われるのか?
っていう話なんです。
そこで、都市が何に基づいて作られた場所で、そこに暮らす人がどうして自然をうまく扱えないのか?
ということが語られます。
それを読んでいて、個人的なゴキブリの体験を思い出したんですよ。
ぼくは、伊賀の山村の活性化に少し関わられてもらっているんですね。
その農村で打合せをしていたとき、部屋の真ん中あたりに、結構な大きさの真っ黒いゴキブリがいたんですよ。
都会ではなかなか見かけないけど、夏に郊外のパチンコ屋の景品交換所の壁や地面にいる大きさのやつ。
わかりにくい?
とにかく、全身漆黒の鎧に覆われた姿から、
「こいつはボスだ!」
と思わせる威風堂々とした大きさだったんですよ。
あ、冷静に思い出すと、たぶん5センチくらいの大きさ。
そのゴキブリを見て、ぼくは会話中も気になって仕方がないんだけど、農村の人はまるで気にしていない。
ゴキブリが足元に来ているのにもかかわらず、気にしてなかったんですよ。
ぼくなら、どう動くか予測できないヤツを前に、ちょっとしたパニックになってたと思うんですけどね。
それって、都市の生活者と自然の中の生活者の差なのかな?
ゴキブリのほうものんびりしたもので、逃げる気配もないんだけど、それはたぶん、普段から人があまり気に留めず、危険を感じないんでしょう。
でも、そりゃあそうだよね。
ゴキブリなんて、ムカデやハチと違って農作業中に噛みついたり刺すみたいな悪さをするわけじゃないし、ゴキブリも自然の中で住んでいる虫の一種でしかないもんね。
はっきりいって、動きが予測できなくても農作業にはなんの影響もない。
ちょっと考えてみると、ぼくが以前畑を借りていたときのことなんですけどね、普段の生活なら虫やカエルに囲まれるなんてゾッとするはずが、畑で雑草取りをしているときはカエルがそこにいるのが当たり前どころか、害虫を食べてくれてるのかも、と思うと愛らしくすら見えてきたんですよね。
それって、ぼく自身が自然の仕組みの中の一員に戻った瞬間なのかもしれないなあ。
家に帰れば、ゴキブリはやっぱり怖くなるのだけど。
世の中は世間からズレちゃった人に厳しいけど
本書を知ったとき、
ぼくが以前、頭を悩ませたLGBTという性的なカテゴリーからも外れた見えないマイノリティの答えのひとつなのかもしれない。
と感じて発売日に買いに行ったんですね。
以前、新宿二丁目という書籍について、というかその書籍を読んで以前から感じていたことを思いつくままに書いたのですが、一般社会でグズとかバカとか話が噛み合わないとか不器用とか言われて役に立たないと弾かれてきた人たちの中にいる、個性の正体が自他ともに見つかっていない人たちを、多様性の中の見えにくい人たちと表現しました。
『世間とズレちゃうのはしょうがない』で語られているのは、そんなマイノリティな人も含まれるんじゃないかと思ったんです。
正直、マイノリティという言葉を使うと、その人の人生に過剰な重みを与えてしまう感じがしてあまり好きではないんですよ。
それに対して、世間とズレちゃうという表現は余計な重さがなくていいですね。
残念ながら、現在の社会は世間とズレちゃった人には優しくないんですよね。
本書では、養老さんが都市の本質について語られていますが、ズレちゃった人というのはもしかすると記号になりきれない人で、記号になりきれず生物のままでいる人のことなのかもしれないですね。
そう考えると、世間からズレちゃった人は都市設計からもズレてしまっていて生きづらい気持ちを味わうのかもしれなくて、それならば年からズレた先にある田舎に行きやすさを求めるのは自然なことなのかもしれないと思うのだけど、実際には田舎も相性がなかなか合わなくて放浪し続けている人もいるんですよね。
世間からズレちゃっても、ズレたところが尖りまくっているのなら都市の中でも専門家という記号を利用して生活を成り立たせることができるんだけど、その尖ったものがどこにハマるのかわからないから世間からズレちゃうとも言えるんだよなあ。
すると、なんだかんだで縁と運を持つことができるかが人生を左右しちゃうんだよね。
そう考えると、運がいつ巡ってきてもいいように、縁を大切に育てていくことが大切なんだろうなあ。
で、思ったんだけど、就職氷河期世代のあるある話なんだけど、学校でテスト前になると交わされる会話、「お前勉強した?」と聞いて、「全然してないんだよ、やばいよ。」と答えたやつにかぎって点数がいいっていうのあるじゃない?
就職氷河期世代は、受験で少しでもいい大学に行くために、周りと変な駆け引きをすることを教えられていたりしたんだけど、そういう人って縁になかなか恵まれないじゃないですか?
もし、就職氷河期世代の多くが縁という縦横のつながりを大切にすることが当たり前の人生だったら、日本はいまごろ元気いっぱいで不況知らずだったかもしれないなあ、と思ったりして。
蛇足でしたけど、世間からズレちゃっているのに生活できている人は、周りの人を大切にして、周りから大切にされている人というのが正解のひとつなんじゃないかな。
おわりに
養老さんは、本書の中では世の中からズレちゃうことをすでに受け入れているからか、淡々と話しているように感じるのだけど、本書でも語られている少年のころに世の中がひっくり返るような経験をしているし、きっと、社会人になってからも世間からズレちゃうからこそぶつかるさままざまな壁を経験したからこその達観だと思うんです。
一方で、伊集院さんは現在の世の中も価値がひっくり返ってしまう経験の真っ最中だと感じているようです。
そんな世の中で、もし、江戸時代のように、
「ええじゃないか♪ええじゃないか♪」
と踊り出す人が全国で溢れかえったとしても、世間からズレちゃっている人たちはその輪に加われずにやっぱりズレたままなんだと思うんです。
みんながええじゃないかと踊り狂うのを横目で見ながら、
「ああ、また乗り遅れた。っていうか、あのノリはムリ。」
と心で思いながら家にこもって読書やゲームをしているんだと思うんです。
で、ええじゃないかの狂騒が止んだころ、自分がどちらかといえば真ん中にいる世の中に変わっているかもしれないんだけど、それでもやっぱり放っておいてほしくて、またズレていく人もいるんですよ。
きっと。
最近、多様性がどうのって言っているのを聞くことが多くなったけど、世間とズレちゃうのはしょうがないということを受け入れられる社会があって初めて多様性は実現できるのかもしれないねえ。
ということを考えていたら、ふとある人の名前が頭に浮かびました。
その人とは、ゴータマさんです。
ゴータマ・シッダールタさん、つまり仏教の開祖、お釈迦様です。
お釈迦様って、そもそも王子様で結婚して子供もいた人です。
そんな国のど真ん中にいるはずの人が、世の無常を感じて城を飛び出し修行しだしてしまったんですよね。
めちゃくちゃな修行をしてみたりして、世間からどんどんズレていっちゃいます。
あるとき、「悟った!」となったんだけど、自分だけが悟りを理解しても意味がないことも悟って、世の中の人を救うために歩き出すんですよね。
その結果、世間とのズレを人々に役立てることで世間と折り合いがついたんだと思うんですよ。
あなたが、もし現在、毎日の生活に息苦しさを感じているのなら本書を読んでみてほしいです。
別に、生きづらさが解消するわけじゃないけど、世間とのズレと折り合いをつけながら生きている人の話はきっと参考になると思います。