『はじめての』
とタイトルにあるんだけど、え~っと、この『はじめての』はいったい本書のどの部分を指しているのだろう?
最後まで読んだけど、失礼ながらタイトルから受ける印象とは真逆の印象を受ける話たち。
もうちょっと読みこめば理解できたのかな・・・。
それにしても、これは困った。
これを読んでしまった後では、「沖縄、好きなんだよね~。」なんてこと、うっかり口に出せなくなる。
どうして口に出せなくなるのか?
それは、この本の著者が誰よりも強い沖縄愛を語りつくしたから、というわけではありません。
いや、ある意味、強い沖縄愛を語り尽くしているのは間違いないんだけど。
ある意味、愛が強すぎるゆえに、読んだ人に枷をして気軽に沖縄好きと語ることを躊躇させるような重たささがあります。
とはいいながら、この本を沖縄のいいところを紹介しているガイド本のように思って手に取った人は、50ページも読まないうちに「グダグダとうるさいな!」の一言で閉じてしまうのかもしれないけどね。
とにかく、『はじめての』というわりには難しい。難しいよ!
と、若干うつうつとした気分を味わいながら最後まで読んで、
「あー、そういうことか。」
と勝手に腑に落ちたことは、あとで書こうかな。
というわけで、今回紹介する本は、いろんな意味でなんとも感想が述べにくい1冊でしたが、読んだからには紹介します。
だって、本1冊に完全な解答を求めることばかりが読書ではないし、色々と余韻が残る本というのは楽しいですから。
はじめての沖縄
著者:岸政彦
発行所:新曜社
初版発行:2018年5月5日
本書はこんな感じだと思います
著者の岸政彦氏は沖縄研究を中心にする大学教授で、ざっくりと言うと街に住む一般人にインタビューすることで地域社会の歴史や抱える問題などを調査している人、だと思います。
また、岸氏は若いころに沖縄を訪れてから『沖縄病』にかかり、地元に帰ってからも泡盛を探しては飲み、沖縄の音楽を愛してしまうような沖縄旅行者あるある状態になり、それが高じてなのか沖縄の研究者にまでなった人です。
それにしても、岸氏の言うところの沖縄病ってやつは、若者だけの流行り病ではないところが厄介なんですよね。
30代からでも40代からでも、きっと60代以上になってもかかってしまう病、と言うよりディズニーランドでかけられる魔法に近い気がします。
本書は、そんな沖縄病にかかった人たちの話、ではなく、沖縄病にかかってから大学教授になり沖縄の研究を進める中で岸氏が直面した沖縄と本土の物理的、あるいは精神的な境界線を前にして、本土に生まれた日本人は沖縄とどう向かい合うべきか?
ということが、自身の思い出、コミュニティ、観光地、歴史、などいろいろな視点から語られているんだと思います。
だと思います、といちいち付けるのは、この本はもしかしたら読む人によって感じることが異なるのかもしれないからなんです。
たとえば、沖縄は日本復帰前は好景気だったという人がいる一方で、占領期は仕事がなくて身体を売るしかなかったという人もいるわけですが、本書では著者のこれまでのインタビューで蓄積した情報から、儲かったという人の視点と、過酷な目にあった人の視点、両方とも書かれているんです。
こういうところが、本書を難しくしている理由だと思うのですが、最近のわかりやすい片側からの主張で完結する本に慣れてしまった人には、読後にお尻がムズムズすると思うんですよね。
とにかく、本書の3分の2までは話題や時代がいろいろと飛ぶというか、本土生まれの人と沖縄の関係性のあり方を軸に著者の若かりしころの話だったり、沖縄のご老人の話だったり、歴史だったり経済だったりの話題が続きます。
でも、この3分の2の話題が残り3分の1を読み進める上での大切な情報になっているんです。
3分の2を読まずに後半だけを読むと、おそらく、その他の沖縄の抱える問題を扱う書籍の概要を読んだだけのようになってしまい、沖縄を間違った眼鏡をかけてみてしまうようになると思うんですよ。
だから、最近は読書を進める人の中で、
「本はまるまる1冊読む必要はない。知識を得るなら興味のある章だけを読めば十分だ。」
という人もいますが、本書の場合はそういう読み方はたくさん沖縄関連の書籍読んでいる人以外には向いていません。
いや、沖縄関連書籍をたくさん読んでいる人なら、本書は沖縄本としては個性的なので、むしろ最初からじっくりと読みたくなると思います。
境界線が消えてしまう催眠術
ぼくは名古屋出身なんですけど、自分が名古屋人のせいなのか沖縄方言の話を読んだ時に感じたのは親近感なんですよね。
名古屋もひと昔前は、東京と比較対象の田舎街代表で、定期的に名古屋めしと方言がばかにされてきました。
方言の話では、なんでも、だがや、だぎゃー、エビフリャー。
机をつる、というのも方言で、「なにそれ~!笑、全然意味わかんな~い!笑」
とバカにされていたわけです。
それがまさか、名古屋めしがこんなに全国レベルになるなんて思ってもいなかったし、名古屋弁も河村たかし市長の名古屋弁は偽物だなんていわれるくらい現在は薄口になってきているものの、理解されるなんて信じられないですよ。
だからというのも変だけど、沖縄に求めているのは、東京や大阪の人のことはわからないけど、名古屋のような都会の田舎といわれる場所で住んでいる身にとっては、地方に旅した時に求める、まだ残る個性や、昭和のバブルの名残に似たような風景に出会いたいという気持ちとそこまで大きくは変わらないんじゃないかとも思う。
ただし、沖縄にはやっぱり独特なお酒の文化が存在していて、あの気候と、あの料理と、あの酒が組み合わさったときに得られる酔いというのは、沖縄が訪れた人にかける催眠術なんじゃないかとも思う。
忌野清志郎が歌うところの、
「ベイベー、オー、ベイベー、いけないルージュマジック ♪」
みたいなもんですよ。
いや、知らんけど。
そんな感じで催眠術にかかってしまうと、仕事場や家庭での日常の自分から気づかぬうちにはみ出して、普段の自分が見たら恥ずかしい姿を晒してしまうんでしょうけど、恥ずかしい姿を晒してしまった沖縄だからこそ勝手に共犯関係的な親近感を覚えて沖縄を知った気になってしまう人がいるんじゃないかな。
恥を晒したあとの親近感って、通過儀礼的なことを飛び越してしまうのでね。
そんな理由もあって、本土と沖縄の間に存在する境界線的なものも沖縄病は消してしまうんでしょうね。
ちなみに、泡盛だって少し前までは臭くてまずい酒と蔑まれていたけど、それもなんだか名古屋めしがなんでも味噌まみれで告れ辛くて食えたもんじゃないと都会者どもに蔑まれていた立場からしたら、なんだか親近感が湧くのですよ。
そういうと、そんなのと一緒にするな!沖縄の歴史はもっと過酷だったんだ!
といわれそうだけどね。
余談だけど、日本では、自と他の違いをわざわざ見つけては下に見ることで自分たちの連帯感を作り上げて優越感に浸ることくらいしか、都会人の定義なんてないのかもしれないな。
本書に感じたぼくの勝手なイメージ
冒頭で、若干うつうつとした気分で読んだと書いたのは、ぼくだって沖縄の人はおおらかだとか、癒しの島だとか思ってしまう魅力を多少なりとも感じているからです。
そう感じるのは、やっぱり空港について飛行機から降りたとたん感じる空気の匂いや肌触りに気分が高揚するし、沖縄へ旅する理由に普段生活する空間から逃避したい気持ちがあるからで、普段の冷静な自分はどんな土地へ行ったっていい人も悪い人も、おおらかな人もせっかちな人も、綺麗な景色も汚い景色もあるのはわかっているんだけど、せっかく日帰りではなくまとまった時間をとって沖縄で過ごすんだから、いいところだけ感じていたいと思うのは普通の感覚なんじゃないかと思うんですよ。
まあ、そのナイチャーの持つ勝手なイメージと感覚を沖縄に押し付けているのが問題なんじゃないの?
と言われれば黙るしかないんだけど、本書で出てくるバスガイドのような活動家じゃないかぎり、普通のサラリーマンのような人は許してやってくださいよ、と言いたくなっちゃうんですよね。
もう、さっき知ったばかりの沖縄の言葉を話しているサラリーマンなんて、エロ本の知識だけで女を語る童貞と変わらないんだからさ。
とはいえ、こんなことを書きながら、本書の特徴に気づいてしまったんですよ。
なんか、俯瞰しに行かずにずっと地べたから観察し続けることを意識的にしている。
普通なら、ある程度豊富な情報が集まったら、次はそれらの情報をもとに俯瞰して観察、考察すると思うんです。
本にまとめるって、ある意味そういうことじゃないですか?
それをあえてせず、過去の思い出も現在のフィールドワークも全て対等に並べてある感じがするんです。
それが、本書の3分の2まで続くのでお尻がムズムズするような焦ったさ、面白いんだけど読みにくさも感じる正体なのかなと思いました。
蛇足ですが、昔、伊集院光とみうらじゅんがD.T.っていう本を出していたけど、本書を読んでいると、青春映画から感じるような、一種のほろ苦い気持ちとモヤモヤ感みたいなものと同時に、何歳になっても心は童貞のままな人のピュアな目線みたいなものも感じたんですよ。
童貞、という表現は別にバカにしているわけではなくて、書籍D.T.でも語られているけど、ものづくりとか発明とか、想像力が豊かで物事をとことん追求する人って心がいつまでも童貞だよねということなんですよね。
ちなみに、心が童貞のままって、多少の差はあれど日本人の80%くらいはそうじゃないかと思うんですよ。
逆に、日本人で心まで童貞を卒業した人は、お金が全ての人じゃないですかね。
その心の童貞があるからこそ、沖縄病にかかっている人の言動に触れると、なんともいえない気恥ずかしさやいたたまれない気持ちになってしまうんじゃないかと思って。
そして、沖縄病にかかっている人の言動と著者の反応の両方にお尻がムズムズしてしまうぼくもまた、心の童貞なんだという事実に直面して苦笑いするわけです。
これは、ぼくが感じた本書の内容とは関係ない勝手なイメージですから、本書を読んで心の童貞を感じなくても怒らないでね。
おわりに~当たり前にあるはじめての
ぼくは1冊を何度も読むタイプではないので、間違って解釈したこともたくさんあるはずです。
いや、それどころかほとんど間違って解釈しているかも。
ただ、これを書きながら改めて、『はじめての』の指す意味を考えてみたんですが、著者が沖縄を訪れるたびに、景色、歴史、文化などの情報を知る、知らされることに常にはじめてのことが含まれている。
もしくは、常にはじめてのこととして受け取るから、沖縄は常に『はじめての』なんだ。
そういうことなんじゃないかと思いました。
そして、はじめての沖縄は、別に著者だけにはじめての場所であり続けるのではなく、旅で訪れる人、仕事で訪れる人、すべての人にとって常にはじめての沖縄がそこにあるということです。
でも、多くの人は目の前が常にはじめての沖縄である可能性に気づかないんですよね。
それは仕方がないことだと思うんです。
だって、日本の教育は知識のための疑うスキル、観察するスキルは二の次というか、そもそも大学院レベルでないと教えてないから。
大人になると、目の前の物事を過去の経験から似ていることを無意識に引っ張り出して認知しようとするけど、よほど注意しないと、それがはじめての経験だとしてもすでに知っている知識だと勘違いさせるんですよね。
もしくは、世代によってですが、マウントすることがコミュニケーションな人の知ったかぶり癖で、周りが大人の対応をしているのを自分が勝ったと勘違いして生きてこれたがゆえのドヤ感のイタさ。
とは言え、この手のドヤ感のイタさは、沖縄病と童貞も無意識に発症しがちな症状なので、一度でも経験のある人はそれを目の前にするといたたまれない気持ちになるんですよね。
ちなみに、『はじめての』は沖縄に限った話ではなく、あなたが普段住んでいる街にだって当てはまるんだと思います。
毎日、目の前に当たり前にあることなのではないでしょうか。
ただ、たった一つのことであってもよほど強い興味がない限り、朝起きてから夜寝るまでの間に大量の情報を浴び続ける現代人には『はじめての』ことを意識して気づこうとするのは疲れるし面倒くさいし、だからこそ人の脳は疲れないように過去の記憶を使って目の前にあるものを認知する省エネ技術を身につけていったわけです。
でも、いつも『はじめての』ことが目の前に存在すると意識することで、沖縄のことに限らず、そこをニュートラルに観ることができるのではないかと思うんですよね。
まずは、本書を読んで、あなたなりの『はじめての』を見つめてみてはいかがでしょうか。