『はたらかないで、たらふく食べたい。』
このタイトルの著書は、一時期、多くの書店でわりと目立つ場所に置いてあった。
ぼくも買って読んだけど、当時はすごく面白くて、「いいじゃんいじゃん!」と思いつつ、でも実用的じゃないなあとちょっとがっかりもしたんだよね。
なぜかというと、ぼくだって、はたらかないで、たらふく食べたいもの。
ていうか、はたらかないで、たらふく食べられたっていいじゃん。
だから、何か参考になることはないかと思って手に取ったわけ。
たぶん、この本を手に取った人の多くが同じことを思っていたんじゃないかな。
とくに、2020年、新型コロナが流行して務めている会社への不安、4月からの仕事が消えてなくなってしまったフリーランス、それどころか大学を退学しなければならなくなったり、採用が取り消しになる人が出てくる一方で、政治が無政府状態かと思うくらい混乱してガタガタになっているのを見せられると、令和に生きる人たちだって「ええじゃないか、ええじゃないか♪」って踊り歩きたくもなるじゃないですか。
となるとあとは、「はたらかないで踊り明かして、ついでにたらふく食べたいんですけど?」
そんなふうに考えたって、ええじゃないか。
そう思うのですけど、それを1ミリでも実現したいならどうしたらいいんだろう?
なんて考えたときに、「実際にやっちゃった人が世界中どころか、案外身近にもいるもんだよ。」と教えてくれるのが、今回紹介する『執念深い貧乏性』です。
執念深い貧乏性
著者:栗原康
発行所:文藝春秋
初版発行:2019年4月25日
本書について紹介するていで
本書は、もしかすると現代で本人の問題ではない理由で悪戦苦闘して、それでもだれかが作った社会のルールの範囲で解決しようともがいている人へ語りかけている、というよりは、ソーシャルディスタンスなんて糞食らえ!なノリでワーワーと唾を飛ばしながらしゃべるていで声援を送っているのかもな~、と思いました。
タイトルが面白いですが、本書を最後まで読んでからあらためてタイトルを見ていると、『執念深い』と『貧乏性』の2つの単語が前向きなものに見えてくるから面白いんです。
それぞれ社会のルールから外れてしまった人が、外れた場所にいながら食べ続けるために必要な、というか、「はたらかずに、たらふく食べるためのメンタリティー」を表すのかな?
なんて思ったんですけど、間違っているかもしれないのであなたも読んで考えてみてちょ。
栗原康さんはアナキズムの研究者で、本書でもきっとその世界では有名なアナキストが逸話とともに紹介されます。
歴史上のアナキストの世界に対峙する過激な方法は、現代では受け入れられるものではありません。
でも、その過激な方法、言い方を変えるなら、『ルールをぶち抜いてまでも自分の生き方を通そうとするしぶとい行動力』からは、はたらかないでたらふく食べられる人になるための参考になるようなことが、少なくともメンタリティー的な部分ではあるんだと思います。
なんていうか、日本人は教育の過程で衝動を無意識のうちに抑える訓練をされているじゃないですか?
たとえば、体育座り。
あれは、大昔に奴隷商人が黒人に無力感を植え付けるためにさせた座り方らしいですよ。
それに、正座。
あれも、本来は侍が殿の前で決してあなたに襲いかかりませんという服従の姿勢で、ある時代から教育に取り入れられた上下関係を強調して支配するための座り方、らしいですよ。
そうやって、身体機能的な部分から衝動を抑えるように育てられた日本人は、衝動を使って現状をぶち抜くことができない人が99%じゃないかな?
だからこそ、良いように受け取れば、内から湧き上がる衝動を大切にして生きたアナキストには、現代の日本人が社会のルールから自分からだけでなく、病気などの理由から抜け出てしまってからも、たらふく食べるために学びたいことがあるのかもしれない、なあ、と思うんですよ。
だから、毎日の生活が息苦しい人、いまなら新型コロナがきっかけで将来が不安になった人は、本書を読んでみてほしいと思います。
ところではぐれ鳥はアナーキーなん?
栗原さんの著書を読むと、いつも文章を書くのが上手な人だなあと感心するんですよ。
正直なことを言って、いまどきアナキストなんて近所にいたら面倒くさそうで、回覧板を持っていかなきゃならないときは Like ping pong dash でポストにねじ込んで、なるべく顔を合わさないようにしたいじゃないですか?
それに、アナキストとうっかり挨拶を交わしたら、その日の夕方から毎日、うちのリビングに勝手に上がり込んでテレビを見ながら夕飯が出て来るのを待っていそうじゃないですか?
しかも、そんな日々に慣れてきたと思ったら、ある日、急に姿を見せなくなったかと思うと、半年後にふらりと現れて、またリビングでテレビを観ている。
「あれ?久しぶりじゃん。のたれ死んだのかと思ってたのに。」
って、ちょっとイヤミ込みで声をかけたら、
「ん、ちょっと沖縄で酒飲んでた。」
くらいの返事をしやがるじゃん。
なんだよ、うらやましい!!
いや、他人の家でメシを食うのは遠慮しいなぼくにはストレスでしかないからうらやましくないけど、誰かさんの都合のいいように儒教的な上下、権威づけされた世の中のルールをクソ喰らえ的にちゃぶ台返しした生活を目指して、その中で糧を得ながら生きられるのならいい感じじゃんねえ。
でも、待てよ?
ふと思ったのだけど、アナキストのイメージってはぐれ鳥のイメージに似てないか?
はぐれ鳥、というか取りに限らず動物の群れにはぐれものが一定数いるものでして。
野生動物を観察していると、群れから1頭だけ群れから離れてフラフラと歩いているヤツがいるらしいんですよ。
はぐれものは、平和な日常なら組織を乱すヤツとして疎まれるか、最初からいないものとして無視されちゃっている。
でも、群れを襲うものが現れたとき、はぐれものが真っ先に狙われて、そいつが襲われている隙に群れはさっさと逃げて行っちゃう。
でも、いつもの場所に餌になる植物がなくて群れが困っているとき、新しい餌場を見つけて群れを助けることになるのは、案外はぐれものだったりするんですよ。
チッ。
こういう場面になると、多数の圧力をバックにいかにもな理由と平等の論理を振りかざして美味しいところだけを巻き上げていきやがる。
これだから、群れの中の仕切り野郎は嫌いなんだ。
いや、話がそれた。
つまり、アナキストもはぐれ鳥もめんどくさい集団の論理から飛び出して、自分が窮屈に感じない自由を大切にしながら生きていく人だというのなら、同類なのかなと思ったんだけどね。
でも、アナキストはぶつかって来るものがいたら迎え撃つ!
というイメージがあるんだよなあ。
それに比べると、はぐれ鳥はぶつかって来るものがいたらその場から飛びさる!
というイメージなんだよなあ。
だって、なんか面倒じゃん?
いちいちぶつかって来る人につき合っていると、運が悪くなりそうだし。
ああ、ヤダヤダ。
なんだか役に立てそうなところに飛んでいって、役目が終わればまた次の場所に風に任せて飛んでいく。
そんな生き方がいいのですよ。
ジェントリフィケーション
本書で、ジェントリフィケーションという、個人的に聞き慣れない単語が出てきたんですよ。
で、なんのことか調べてみたのですが、詳細を知りたい方はググっていただくとして、ここではすご~く簡単に説明します。
ジェントリフィケーションとは、川沿いや旧工業地帯のような、景観的に見てもさびれている地域を行政的に再開発したり、アーティストなどの新しいことにチャレンジしようとする人が移り住んで街が活性化されることにより街の価値が上がっていき、その地域が富裕化していくことらしいです。
一方で、旧工業地帯や川沿いに住む人たちは低所得者が多く、ジェントリフィケーションによって地価が上がって住めなくなったり、地域の横のつながり、コミュニティーが変わってしまうことによって住みづらくなり、結果として土地から追い出されてしまうという負の側面が問題になるようです。
個人的には、この件を調べていて思い浮かんだのは、昭和のバブル期に起きた地上げによる街の再開発と追い出される人たちのニュースでした。
昭和のバブル期の地上げは、ずいぶんと荒っぽく住人から土地を巻き上げて街を再開発していったじゃないですか?
で、その新しい街で、といってもほとんどが東京の話でしたけど、新しい施設やライフスタイルを喧伝していたのが当時の文化人やトレンディーなタレントたち、もしくは女子大生でしたよね。
ジェントリフィケーションという言葉自体、耳障りのいい言葉には思えませんけど、それでもバブル期の再開発の上位互換に見えるのは、ぼくだけなのかなあ?
都市部では、ある程度の継続的な新陳代謝が起きないと、時代に必要な機能性が失われ衰退していきます。
たとえば、名古屋市では栄地区が新陳代謝が遅れたため、街の先端性などの面で価値が名古屋駅周辺に逆転されたんですよ。
イメージでは、服を買う人、飲み会をする場所が栄から名駅に移っちゃった感じです。
でも、栄や名駅のようなもともと商業の中心地区として整備されてきた地域の新陳代謝をジェントリフィケーションとは言わないのでしょうね。
それよりは、また名古屋市のたとえでわかりにくいかもしれませんが、堀川沿いの再開発や、名駅でも西口側の、その昔はドヤ街だったような地区の再開発や人の出入りのようなことで起きることを表す言葉なんだと思います。
ああ、そうだった。
どうしてぼくがこの言葉を気にしたかというと、近年の地方創生という里山や里海地域の移住や再開発でも同じような状況になっている地域もあるんじゃないかな~、と思ったからなんですよ。
地方創生やシャッター街再生などで出てくる言葉に、
「よそ者、若者、ばか者」
というものがあります。
この発想を否定する人は、実は以外と多いのですが、ぼくは言葉をうわべだけで受け取らず意味をしっかりと理解した上でなら、やっぱり正解だと思うんですよね。
この3つの意味って、それぞれの人を役立つ機能という評価基準で見ていて、ある土地で活躍、役に立つことを前提に語られるじゃないですか?
でも、本来の順序は、地域として、よそ者、若者、ばか者、それぞれの人を受け入れられるか?
ということがまず先にあって、受け入れた人が地域に馴染んだときに、入ってきた人がこれまでの経験などをその地域に活かせないかとアイデアを出しているうちに、その地域に機能していくというストーリーがあったんじゃないかな?
そんな動きが、いくつかの地域で活性化に繋がって、それに気づいた学者や官僚的な人が分析して成功パターンを見つけてしまった。
ただ、調査する段階で、成功した要因ばかりにフォーカスするあまり、成功に転がりだす前の物語が抜けてしまっているんだと思うんですよ。
よそ者、若者、ばか者、なんてきっとまだ自分の居場所みたいなものが見えずモヤモヤとしている人ばかりでしょ?
そういう人が、たどり着いた場所で何かが開眼するまでの物語があって、それこそが重要なカギなはずなんだけど、そこはエリート的な人には見えなくて、盲点を盲点と気づかないままに「成功パターンを発見した!」となっていることが多いんじゃないかな。
でも、そういう語りやすい成功パターンが作られると、今度は大きな資本を持っている人や組織がお金や人脈があれば簡単に実現できると思い進出してきちゃう。
そうすると、地域の人たちの思いとは離れたところで物事が進み、気づいたら地域の人たちは潤わないイベントが開催されたり観光施設ができていたりする。
語源のジェントリって、元の意味は地主貴族みたいなことで、上から物事を指示する支配者のようなイメージがありますよねえ。
たしかに、そこで暮らす人すべてが地主貴族になれるのなら、それは富の平等な分配になっていてみんなハッピーなんだろうけど、現実には理想的な共産主義じゃあるまいし、みんなハッピーなんてありえないでしょう。
だから、多くの場合は資本の多い組織の目線でものごとが進んでいき、社会的に弱者に分けられる人が追い出される結果になりやすいんじゃないかな?
それって、地域の新陳代謝ではなくて計画を立てた側の都合のいい浄化で、資本主義に潜んでいるファシズムが社会貢献という大義名分のもとに牙を剥くわるい姿じゃないかと思うんですよね。
貧乏になった地方都市や田舎町が新陳代謝を進めたいなら、よそ者、若者、ばか者が開眼して目からビームを出しながら爆走したほうがダダ漏れした生命力に周りもあてられて地域の人がちゃんと関わった結果が出ると思うんだけど、ジェントリフィケーションのようなパターンが社会の老衰によって固着してきているようでは、格差は広がるばかりだし、何よりも、「つまらね~世の中だな。」の一言で終わりだよね。
終わりに執念深いと貧乏性を分解してみる
そうだよねえ。
会社員として生きていくにも、不況になったら、「なにがなんでも会社にしがみついてやる!」という執念がいるだろうけど、社会のルールから外れているならなおさら、「たった1円でも拾ってやる!」という執念深さがいる。
でも、その執念深さっていうのはネガティブなイメージではなくて、執念を類語辞典で調べれば、熱い想いとかなみなみならぬ想いなんていう言葉が出てくるんだけど、その言葉からイメージし直せば執念深さというのは、内から湧き出す衝動の強さ、衝動の鮮度と言い換えることができないかな?
そして、貧乏性というのは、せっかく湧き出したフレッシュな衝動をぜったいに逃がさねえ!と行動にリンクさせる瞬発力と言い換えちゃう。
そんな衝動と瞬発力を、教育で刷り込まれた反射的に抑え込む能力から解放するためには、アナキストを参考にやってみたいことを実際にやってみる。
ただし、犯罪ではないことで、自分だけテンションがマックスになりそうなことをやってみる。
しかも、止めることなく思いつくものを次々と、1回だけで放り投げてもかまわないからどんどんどんどんやってみる。
そうすると、もしかしたら執念深い貧乏性になれるのかもしれないね。
はたらかないで、たらふく食べたい人へのアジテーションは、案外そんなことなのかもしれない。
本書の『おわりに』の内容は、人によっては刺激が強すぎるかもしれないけど、問題はそれそのものではなく、それの機能としての本性のほうだから、書いてあることの上っ面につられてプンプンプン!としちゃダメだよ。
それよりも、無条件に信じてしまっていることに自分が足止めされてないか?
そこを見つめ直す機会にしたほうが、読書を1円にできるかもしれないからさ。