今回の本は、以前紹介した佐藤隆信氏著の『新宿二丁目』の中で出てきたもので、その新宿二丁目の流れで本書も手に取りました。
手に取りましたが・・・、
難しすぎてなかなか読み進められないし、数行読むだけでいろいろな情景が頭に浮かんできてしまい、途中休みながら最後まで読むのに半年かかってしまいました。
そんな本です。
表徴の帝国
著者:ロラン・バルト
訳者:宗左近
発行所:筑摩書房
初版発行:1996年11月7日
※本書は1974年11月10日、新潮社から刊行されています。
かなた
この本には初っ端にどでかい壁が立ちはだかっています。
最初の章『かなた』は、読もうとしても1ページ目からつまずきまくりで、なかなか前へ進めないんです。
これはぼくの集中力が続かない個性の問題かもしれないけど、うっかり無意識に3行読み流してしまうと、途端に何を語っているのか行方不明になってしまう。
だから、あわてて数行前に戻って読み直すことになります。
でも、1行の濃度が高いから、ワンフレーズから脳内にイメージが浮かんでしまうと、またイメージが膨らんで勝手に一人歩きを始めて、ぼくはまたしばらくの時間、妄想の住人になってしまう。
でも、そんな現実と妄想の世界を行き来しながらも、なんとか『かなた』の最後まで読み進めるのだけど、なんだか霞のかかった道をずっと歩かされているようなきもちで、結局何を伝えたいのか、輪郭をつかむために一生懸命に目を凝らさなければならないのよ。
そうやって、なんとかつかんだつもりの輪郭も、実はこの世には先天的な輪郭がないということだったりするわけです。
空無とペンと筆
とにかく、この本は日本文化の本質を空無から見出そうと芸能から文芸から街の姿からと、色々な側面から表徴の線を探っていきます。
でも、説明を読み進めている間、ぼくの頭には常に?が浮かびつづけてなかなか消えないんですよ。
たとえば、俳句の特徴について説明するところを読むと、西洋の文学などでは物語の世界をふくらませるために、ひとつの物事を事細かく説明することでその物事の存在をクッキリとさせるんですって。
それに対して、俳句はひとつひとつの物事、魚の臭さだったり暑さだったり月の明かりだったり、それぞれがそれ以上の意味を持たず、意味の宙吊り状態だと話します。
この感覚が、日本の文化の中で育ったぼくにはどうにもわからない。
俳句から浮かぶ情景から、そのときの情景や感傷のようなものが五感で感じられるなら、意味は宙吊りになっていない気がするんですよ。
ただ、文房具店という話を読んで、ここに感じることの正体、感性のズレのようなものの正体の『し』くらいはあるのかな?と思ったところがありました。
それは、万年筆と筆の次元的な差が文字に無意識に込めることのできる縁起の量の差として、表現文化の違いを育てたのかもしれないということです。
万年筆、べつに鳥の羽ペンでもガラスペンでも一緒ですが、それぞれが紙の上に文字を書くには、ペン先のインクを紙の毛細管現象により液体が引っ張られる力を借りながら紙に擦り付けます。
そのときに紙の上に表現できる線は、ほぼ一律の太さで2次元的です。
鉛筆も、毛細管現象はありませんが黒炭を紙の表面の摩擦で削りながら擦り付けていく結果、線の太さはやはり一律ですよね?
一方、筆は筆先が毛の束でできていて柔らかく、その毛の束で墨汁をたくさん含んで紙の上に適量を乗せていきます。
紙の毛細管現象は墨汁が乗ってから紙の中に引き込むために発揮されます。
そのとき、紙の上に表現できる線は、太い部分と細い部分、かすれた部分など複数のバリエーションがあり、紙の上で縦横だけでなく高さや低さなどの奥行きまで3次元的な表情を見せることもできます。
筆は、この3次元的なコントロールに、美醜や感情を乗せてきました。
さらに、俳句は読み上げることも表現に入ります。
これを、当時のタイプライターの一律のフォントで打ち出された俳句を東洋文化の外側で生きてきた人が読んだとき、それぞれの単語は案外、意味が宙吊り状態と感じるのかもしれないですね。
そして、当時は手塚治虫氏の1972年~1983年まで連載されたブッタを読むと、日本でも空についての研究と理解がまだまだだった気がするだけに、本書の空無という表現と理解に?がつきまとったのですが、海外でも現代の空と縁起についての本が読める環境で、もし著者が当時から研究が進んだ空と縁起についての知識があったら、本書は東洋文化に全く別のものをみつけたんじゃないか?
とも思うんです。
空が文化の中に根付いているからこその、表現の受け取り方があるということ。
それは、日本人すらわかっていない人がほとんどだと思うけど、それでも10代の若者ですら、スマホやテレビを消して心静かにそこを見つめれば、トレ(特徴線)にすら物語が浮き出して感じるはずで。
空無という表現が、令和の時代にどこまで生きているのかわからないけど、そもそも空と無は同じに見えてまるで逆さまの意味を持っています。
まず、無は何もないことでいいでしょう。
でも、空は全部あることです。
ということは、無は空に内包する概念のひとつだといえます。
有も無も空の表現体(エクリチュール)だとするならば、空無というのはおかしな言葉と感じてムズムズするんです。
書かれた顔
ここは、ぼくのただの忘備録的な感想だけ書きました。
女形の白塗りの理由が面白くて素晴らしい気づきがありました。
また、乃木将軍夫妻の自害直前のスナップ写真が載っているのですが、その写真の2人の表情についての説明も深い。
ただ、白塗りの理由については、これも最近の研究なのか、行灯やロウソクが照明だったころの一番映える化粧だったことをどこかで聞いたことがある。
でも、この章で書かれた、舞台上で男が女を表現する上での西洋と東洋の違いについての分析の素晴らしさが色あせることは決してありません。
タイトルの意味と進む破壊
タイトルの表徴の帝国とは、日本人が心臓を動かしたり瞬きをするのと同じように無意識に使っている意思伝達方法やものごとの前提のようなもの全てで、それが日本人には当たり前すぎて見えていないものも含まれる、あなたがいま立っているそこのことだと思う。
そんな、日本の文化では当たり前で言葉で表そうとしないことを、日本以外の人たちが理解できるように必要があっていちいちテキストに変換したから、逆に日本人にはわかりにくくなっているのかもしれない。
でも、そんな表徴の帝国も破壊が進んでいて、すでに取り戻せないレベルかもしれない。
それはたとえば、ミシュランの一方的な格付けによる文化価値基準の強制的で侵略的な変更で、見えない価値を星の数という1次元表現に落としてしまった。
また、テレビで一時流行った、イエスかノーか?正義か悪か?みたいに極端な二者択一を迫る番組構成は、日本の曖昧なところで上手に答えを見つけていく文化を悪いもののように印象付けていった。
当時、アメリカのビジネスマンが日本人の曖昧文化を批判しているような話題をやたらと流していたが、そもそも欧米のビジネス社会ではディベート文化が根付いていて、二者択一の前にそれぞれの立場からたくさんの情報をもとに激しい議論をする。
日本だって、曖昧に見えてお互いを気遣いながら穏やかに議論して決めているだけで、最終的には二者択一をしている。
ただ、選んだほうで進めてみて、いざ何か不具合の予兆がみえたときに、迅速にもう一つの選択肢へ移れるよう、余白を上手に残すのが日本のビジネスのいいところだったはず。
それを上手に説明できていれば、欧米のビジネスマンでも納得したはずです。
なぜなら、ディベートの後ははノーサイドが普通だからです。
このノーサイドが、欧米の自己責任なわけで、お互いに納得したのだから、何か不具合があったときは責めることなくみんなで解決に全力を尽くすんです。
日本の曖昧文化も、実際には不具合があったときにみんなで全力を尽くせる空気を残すための余白だったのだから、仕組みの説明ができれば欧米のビジネスマンでも理解できないはずはなかったと思うんですよね。
エモい
ちなみに、最近流行っている『エモい』という言葉。
これは別に、最近できた言葉ではなく、少なくとも2014年ごろにはアイドル界隈では使われていた言葉です。
基本的には、アイドグループがステージで歌っている姿に、そこまでの紆余曲折あったストーリーが重なったとき、ファンたちの中にエモい感情が湧いてきたわけです。
2020年現在のJKが使う『エモい』は、写真などにレトロを感じたり友達同士の関係性みたいなものを感じたときにエモいという他に、ちょっとした雰囲気にもエモいというのが流行っているんだそうです。
でも、JKの間のその『エモい』という感情がどこから出てくるのか?
と考えると、過去に日本の文化の中で培われてきた物語だったり、たくさんの物語の積み重ねからできていった表徴を受け取る感性を親や祖父母を代表とする多くの人たちからインストールされているから、そこに強い物語がなくてもボンヤリとエモいものを感じられるんだと思います。
問題は、エモいを消費するパワーばかりが強く、生産するパワー、というか生産する欲求が日本から失われている気がすることです。
たとえば、パナソニックやホンダなどの大企業が持つ物語性は、現在のビジネスマンでも一度は触れたことがあると思います。
その成長の物語には、多くの革新的な製品が生まれる過程、多くの社員を養っていく器量などにエモさが生まれたわけです。
でも、現在の日本には、革新的な製品を生む企業はあるでしょうか?
インバウンド戦略に、エモい物語があるでしょうか?
企業を例にお話ししましたが、エモいを消費する一方ではやっぱり表徴の帝国は崩壊してしまい、もう元には戻らなくなるでしょうね。
おわりに
中学生のころ、深夜にたまにフランス映画が流れていたのを、なんとなく目が離せなくて終わりまで観てしまった記憶がある。
30年くらい前に流れていたフランス映画は、リュック・ベッソンの作品のようなド派手さとは無縁の、2時間ずっと同じ部屋で男女が語っているような作品が多かった。
あの、なんともいえぬ不思議な時間。
テレビの中では2人の日常の会話が続いているはずなのに、観ているぼくは日常から切り離されて深夜の静かな時間の間に置いてかれたような感覚。
そんな不思議な体験がたまらなくて、当時、深夜にフランス映画を見つけるとうれしくなった。
本書は、そのとき気持ちを思い出すいい時間を味わえた。
この本を読み終えるのに半年以上かかったのは、きっとそのせいだと思う。