今回は、本来は取り上げるつもりがなかったマンガを紹介します。
このブログは、なるべく昭和に出版された書籍を紹介するのを目的にしています。
と言いながら、印象に残った本ならなんでも紹介しているのですが。
ただ、マンガは紹介するつもりはなかったんですよ。
なんとなく、マンガを含めるとサイトの色が濁るかな~と思ってみたり、そもそもマンガや小説のストーリーについて語るのが苦手だったりするので、なるべくは昭和のサブカルチャーや時事問題などを考えるきっかけになるような本を選んで紹介しているつもりなんですよ。
だから、実際に読んでいる本は紹介している数よりはるかに多いんですけど、
「この本について書くのは裸を見せるのと同じ恥ずかしさがあるな~。」
なんて思ってしまう本もあるわけです。
そんなわけで、マンガと小説は取り上げるつもりがなかったんです。
でもね~・・・。
いきつけの昭和の雰囲気を残すマンガ喫茶で、最近たまたま目に飛び込んできた全5巻のマンガに魅了されてしまったんです。
マリア
ヤングチャンピオン・コミックス
出版社:秋田書店
初版発行:1巻2015年5月20日、5巻2017年4月20日
著者:吉沢潤一、井口達也
レディースと片田舎はワンセット?
このマンガは、田舎を舞台にした暴走族マリアを中心に、地元の人たち、や不良になりきれない若者、家庭暴力などで行き場所を失った子たちを中心に支えあいながら、反発し合いながら、時代とどう折り合いをつけて生きていくか?を見つめていく物語です。
ぼくは昔から、ヤンキー系のマンガって苦手で読んできていないんですね。
だから、ジャンプを毎週読んでいたころも、ろくでなしブルースは全然興味がなかったし、あとは~・・・、ほかにヤンキー作品が浮かんでこないくらい知らないんです。
ぼくが知っているヤンキー、レディースの出てくる物語は、映画の下妻物語かな。
というか、マリアも下妻物語も、平成以降で物語にすると舞台が畑や田んぼだらけの片田舎になるんですね。
下妻物語も、片田舎で独りスクーターで暴走し続けるイチゴと、ヤンキーなんてダサいとロリータファッションであぜ道を歩く桃子という、一見すると真逆な2人が生き方を模索するストーリーでしたよね?
マリアにも、渋谷や原宿にいそうなファッションをした仲間と、いかにも田舎にいそうな仲間が、マリアという4人しかいない暴走族を拠り所として、特に暴走することもなく仲良く生きているんです。
昭和で終わったものと忘れてきたもの
ヤンキーを扱う物語の舞台が田舎になりがちな理由を考えると、これは多分、暴走族という存在が昭和のもの、昭和のアイコンだったからなのでしょう。
近年でも、たまに暴走族が検挙されたという話が報道されることがありますけど、捕まった人たちの年齢ってたいてい、若くても30代後半、多くは40代以上なんですよね。
つまり、中学生ごろに暴走族だった人が中年になって再デビューしたり、当時から定期的に集まって走っているというパターンです。
昭和がそのまま、令和になっても走っているわけです。
マリアのストーリーでは、暴走族、レディースをどう終わらせるか?
というところが重要で、この部分を中心に群像劇が進んで生きます。
「もう役割は終わったんだ。」
と未来に目を向けている人。
「あの頃は度胸がなくて悔しかった。」
と過去を取り戻そうとする人。
どちらの人も、暴走族、ヤンキーというものはすでに過去のものだと気付いているところが同じです。
違うのは、見ている場所が未来か?それとも過去か?
というところですよね。
ぼくが思うに、東京でも名古屋でも大阪でも、都会の街は常に新陳代謝を繰り返していて、文化や流行は目まぐるしく消えたり変化していきます。
そういう中で、現代人から仲間意識というものが変化しすぎて、仲間を肌感覚で感じられるカルチャーが消えつつあります。
たとえば、顔を見たことがなくてもLINEで繋がっているから仲間と思える若い人は、肌感覚はむしろ邪魔なもの、気持ち悪いものと感じるのかもしれません。
でも、その一方で田舎へ移住して暮らしたいと思う人の多くは、顔と顔をあわせる仲間づきあい、肌感覚を感じられるコミュニティーを求めているような気がします。
そして、田舎で肌感覚を求める人の中には、20代の若者も多いんですよ。
これはつまり、暴走族というカルチャーは昭和で終わった一方で、暴走族などの仲間内で感じられる肌感覚の繋がりは終わったわけではなく、うっかり昭和に忘れてきてしまったものなのではないでしょうか?
だから、暴走族と片田舎の町がワンセットであるのと同じで、肌感覚を感じられるコミュニティーと田舎がワンセットになっているのかもしれないですね。
ワンチームのちょっと悪口
ラグビーのW杯の影響で、ワンチームという言葉が流行しましたよね。
テレビを見ていても、何かとワンチームという言葉を使いたがる司会者がいてうんざりします。
どうしてうんざりするかというと、東日本大震災のときを思い出すからなんですよ。
2011年のあのころ、絆という言葉がやたらと使われたのを覚えていますか?
絆って確かにいい言葉だと思います。
でも、絆をメディアがことさら大声で使いまくったことで、復興の大変さと悲惨さを美談で覆い隠してしまいました。
現状はどうか?
2020年になっても、家が半壊したのに補助金の対象外のレベルだったせいで、修繕費を全額負担しなければならず、いまも借金返済で苦労している人たちがいます。
いまも心の傷が癒えず、仕事に支障をきたしている人がいます。
ワンチームも、なんだかみんなで団結して戦うことは素晴らしい!
みたいな、昭和の団塊世代が悦に浸るために使われている気がするんですよね。
高度経済成長期に、みんなで一丸になって働いた姿とダブらせようとしているというかね。
でも、ラグビーの代表選手って、その辺の平均的な人が集まった集団ではないでしょう?
いうなれば、それぞれが飛び抜けた能力を持った超人が、さらにすごいパワーを発揮するために集まったチームで、その超人たちが最大限のパワーを発揮するために必要なのがワンチームじゃないですか?
単に、「仲間っていいよな~。」
「みんなで一つのことを達成するっていいよな~。」
みたいなマイルドヤンキー的なチームではなく、
血しぶきをあげながらもプロフェッショナルとして仕事を遂行して行く、特攻野郎Aチームみたいな、スペシャリスト集団のことじゃないですか?
いまのワンチームを好んで使っている人たちって、
「あのころ度胸がなくて暴走族には入れなかった。」
「あのころ度胸がなくて学生運動に参加できなかった。」
というタイプじゃないかな?
と思うんですよね。
だから、ダサいなと感じちゃうんですよ。
話は戻ってアキラはどこへいく?
主人公のアキラは、前のリーダーにあることを託されています。
その機体の中、アキラはどこか達観しながら、自分や仲間の居場所、存在をするのが一番いいのか?
と考え続けるんです。
と、ぼくは読んでいて感じました。
ネタバレは避けたいのでくわしくは書きません。
ただ、この作品の中で語られる、
誰のために生きるのか?
居場所ってなんなのか?
という問いは、
現代が昭和に忘れてきてしまってよかったのか?
と考えさせられる、無形のものが確かに存在するんだ。
ということに気づかされました。
社会の分断が進む現代で、生きづらさを感じている人たちは、
これから何を模索していくべきなのか?
ということを考えさせられるストーリーでした。
あ、過去にマンガを紹介してた・・・・